自分の中にある答えって何?
自我は
エゴは
「答え」を知りたがります。
何か明確な、
これさえやっとけば大丈夫
これさえあれば大丈夫って感じの。
でも
そんなもんは無い!笑
何も無いことが
答えだったりします。
えー!
答えは自分の中にあるんじゃないのー?
有ると言えば有る。
無いと言えば無い。
例えば、
目には見えない
人智を超えた大きな存在
それを
有ると感じる人には有る。
無いと感じる人には無い。
どっちも正解!
その答えは自分の中にあるってことです。
カタツムリに寄生する
ある寄生虫は、
寄生したカタツムリを
強烈に派手で
カラフルな色に変えて、
捕食する鳥から見つけやすくします。
寄生された
強烈に派手で
カラフルなカタツムリは、
自分の意思では
動けなくなってしまうんです。
寄生虫は今度は
カタツムリを食べた鳥に寄生して、
遠くまで運ばれフンとして落とされ
またそこで別のカタツムリに寄生します。
延々と繰り返される役割。
選択の余地の無さに、
私は畏怖というより
純粋に恐怖を感じます。
でも
これは私が感じること。
実は、
寄生虫もカタツムリも鳥も
自分で色々
選択しているつもりかも知れない。
同じように、
私たちが自由意志を持って
自分で選択しているつもりでも、
人智を超えた大きな存在から見ると、
全て計画された役割を
演じているだけに見えるのかも知れない。
視点が変わると、
同じものを見ても
全く別の世界が広がっています。
だから
答えは無数にあるとも言えるし、
「ない」ことが答えとも言えるんです。
自我が
エゴが
答えを求める時、
心は
欠乏感でいっぱいになっています。
△△さえあれば…
◯◯さえ出来れば…
という
条件付きの自己愛
そして
△△や◯◯が手に入った時、
ほんの一瞬だけ
快感を味わいます。
でもそれは幻想。
自我は
エゴは
足りないものを
探し続けます。
出口のない迷路に迷い込みます。
足りない
足りない
足りない
足りない
足りない
欠乏感から追い求めると、
つまり
今の自分を否定しながら
答えを追い求めると、
無限ループに陥ります。
出口のない迷路から
無限ループから
抜け出す方法は、
欠乏感から
答えを求めていると気付くこと
そして
今の自分を
否定してしていると認めて
それを感じること
それは
辛いです。
恐怖です。
絶望します。
嘔吐します。
でも
自分は欠陥品だと
感じてしまっていたこと
その自分の気持ちを、
そんなこと
思っちゃダメだーって
否定するんじゃなくて、
自分で自分を
欠陥品だと感じていたんだねーって
あきらめて受け入れると、
自分を愛するエネルギーが
循環し始めます。
今ここに
ただ
存在していることに
感動します。
そこに
答えがあるんです。
自分の中にある答えを見つけても、
それにしがみつく必要はありません。
答えなんて、
どんどん手放していけばいい。
手放しても
手放しても
同じ答えに辿り着くかも知れないけど、
それならそれでいいし、
執着する必要も無い。
自分の見つけた答えに執着すると、
それに依存しちゃうからね。
だから
うっかり忘れちゃいけないのは、
目には見えない
人智を超えた大きな存在
その存在を感じて
感動することがあっても、
選択権も
決定権も
自分にあるんだってこと。
全ては自分の中にあるってこと。
私の個人的な考えを言います。
目には見えない
人智を超えた大きな存在
人によっては
宇宙と呼んだり
神と呼んだりするもの
それは
自分の中にある
つまりそれは
私が創り出したものであり
私が設定している私の世界
私が自分で選んだもの
大きな存在の下に私がいて
指示を受けたりする関係じゃなくて、
同等な立場という訳でもなくて、
同一のもの。
私=宇宙=神
って感じです☆
異論は受け付けません。笑
そして
私の考えは、
変わる可能性があります。笑
だから
ロックが言ったから
それが答えなんじゃなくて、
あなたの答えは
あなたの中にあるんです☆
ロック